最近、イトイさんの「インターネット的」を読み返してるんですが、インターネット的であることとは、リンク/シェア/フラットの3つであると書いてあって、この本って8年前の本なんですけども、やっぱイトイさんってすごいわ~と、あらためて感動しておる次第なんですけども。
でですね、さっきふと思ったんですけども、もしかして、
ブログでリンクがフラットになり、
twitterでシェアがフラットになった
んじゃないでしょうか。
有名人と一般人のつながり方を想像してみると、この感覚がわかりやすいんじゃないかと思うんですが、どうですか?
でもねえ・・
シェアがフラットになるのはいいことだと思うんですけども、たとえば普通の人のコンビニ昼飯をフラットにシェアされても見る気はしないわな。
でも100回に1回でも事件が起きたり、過去に事件が起きたという情報があれば、つまんなくても見るわな。
つーことは、コンテンツは中身の完成度より、期待値が重要ってことなのだろうか?
なんてことをつらつらと考えていくのですが、ウルマーはそれを直接何かに生かすことができません。でもたぶん、つらつらがじわじわ染み渡って、いずれ何かに反映されていくのでしょう。
勝間和代さんに傾倒する一派を「カツマー」って言うらしいですね。
それでもカツマーを目指す?目指さない?(アメーバニュース)
ということを知って、カツマーがあるならウルマーがあってもいいじゃないかと思ったんですよ。いや、語呂だけでそう思っただけですけどね。うるまに傾倒する人なんていなくていいから。
でも、いるとしたら、ウルマーの条件って何かなと考えたら、
ゆるい
将来を設計しない
役に立たないことが好き
あたり?
あれ?これってカツマーの反対じゃん?
ということを、昨日Twitterでつぶやいたんです。
んで、書きっぱなしで、寝て、起きたら、たくさんRTされてた。
やっぱりいるじゃん。ウルマー。
たくさんいるじゃん。ウルマー。
カツマーと比較する気はないけれど、がんばって勝ち組なんかになりたくないです。がんばって手に入れたら失うのが怖くなるでしょ。怖くなったらがんばって維持するはめになる。つまりずっとがんばるってことでしょ。疲れるじゃん。
がんばりすぎない。大事にしすぎない。何でもほどほどに。何でも楽しく。勘に頼って生きていく。それがウルマー。
そういうことをブログに書けばいいんだよと言われたので、そういうことを書きます。
昨年のリーマン問題とか、超一流企業の倒産とか、自民が負けたり、清志郎やマイケルが死んじゃったり、ここのところ、大阪人でなくても「ありえへん!」と叫びたくなることが次々起きますよねえ。
一体どうなってるんでしょう。
これが変化、ですか?
確かに猛烈な勢いで何かが変わっていて、今まで培った知識や常識が通用しなくなってると、おそらく今生きてる人全員が感じてるんじゃないかと思いますが、じゃあ具体的に、
変化って何よ?
よくわからんのだよなあ。
もっとこう、わかりやすく今起きてることを表現できんもんかと、ここんとこずっと考えてたんですが、昨日閃きました。
これだ。
↓
再定義
ついこの間まで、特に日本は、定義が安定してたと思うんですよ。政府というのは自民党であるとか、会社というのは社員を大事にするとか、とっても安定した定義の上に成り立ってた。
その安定が崩れ、国家というもの、会社というもの、雇用というもの‥、個人、家庭、男女、お金‥、果ては所有することから捨てるということ‥、あらゆるものが猛スピードで再定義されてる。
今起きてる変化を、わかりやすく言うと、そういうことなんだと思う。
みたいな。
無いな、キャンセルボタン。